書 評

木下 昌明著
『映がたたかうとき ――壊れゆく〈現代〉を見すえて
 

 ◆ウェブサイト「シネマ・チリ ペーパー」新刊映画本の部屋より
 評者=桑島まさき

 ものものしいタイトルだが、表現ツールの一つである映画は、そもそもそこに描かれている人間の直面する問題をあぶりだし社会に対してメッセージを喚起する役割を担うべきものである。映画はガハハと笑い楽しむ娯楽の一つである、という意見もそれはそれで認めるが。

 本書は、映画を通して現代社会を思想的に読み解く著者の四冊目の批評集である。「思想運動」や「社会評論」など政治色の強い媒体で長年執筆してきただけあり、著者の視点は常に「社会的弱者」=「労働者」の側にある。巷に溢れる凡庸な映画批評とは一線を画し、作品に向けられる批評眼はすこぶる熱い。

 俎上にあげられるのは、マイケル・ムーアの「ボウリング・フォー・コロンバイン」、ケン・ローチの「ブレッド&ローズ」、モフセン・マフマルバフの「カンダハール」など深刻な社会問題を内包した作品ばかりで、著者独特の視点で厳しい批評が続く。 

 「1票のラブレター」(ババク・パヤミ監督/イラン)では、「選ぶ相手をどんな人物か『知ることの大切さ』」をさりげなく提言した本作を通して改めて民主主義の根幹に関わる問題を提言する。人気者のいる政党だからといって立候補者がどんな人物がしらずに1票を投じたり、メディアに煽られて人物評価をしたり。すっかり形骸化してしまった選挙の内実を一喝する。

 大ヒットとなった「たそがれ清兵衛」は、主人公の清廉潔白で誇り高い生き方が日本人の情緒を刺激し、作品を悪くいうことさえ躊躇される向きがあったが、著者は黙ってはいない。武士としての制約(藩命)から逃れられず官軍に敵対する藩の先兵として戦わなければならなかったことに対し、「ナレーションは、その側面をさらりとでもいいからふれるべきだった。せめて、どんなにつましく生きても…その精神が美しかろうと…支配的現実によって時代をのりこえることができなかった悲しみを悲しみとして語ってほしかった。それができなかったところに、山田洋次の松竹大船調予定調和のドラマづくりの限界があった」と論難する。 

 "ファシズムに向かう奔流"と著者がいう現代の風潮。誰もが感じていながら認めるのが恐いので何もできず手をこまねいている。しかし諦めてはいないはずだ。だからこそ、このような著書を読むことに意義があるのではないかと思えてくる。




 ◆『図書新聞』2004年12月18日    評者=松沢弘(反リストラ産経労委員長、経済ジャーナリスト)

 ▽「民衆のため息」の視座から

 映画はいったい、何とたたかうというのか? 映画がたたかわなければならないときとは、どんな時代なのか?

 その問いに対する直接的な答えは、本書には書かれていない。しかし、あとがきにかえて書き下ろされた「人間がこわれていく」のなかに、物静かともいえる、それでいて間違いなく持続的な深い怒りを通奏低音として、その解が黙示されている。著者が、批評する人から撮る人に変じて私家版の3分ビデオに記録せざるを得なかったほどの、過労死寸前ともいえる愛娘の長時間労働の実態を明らかにした一文がそれだ。そこに掲出された、眠る暇さえない『娘の時間』の表は、たたかうべき対象が、まぎれもなく私たちの生きる今、現代そのものであると告げている。たたかいで目指されているのは「人間と社会の再生」にほかならない。


 本書で取り上げられた数十本もの映画の題名を眺めて、ため息をもらすのは、私ばかりではあるまい。読者の多くが、私と同様に、これらの傑作郡を見逃してしまったのではないか。私も、かつては、いっぱしの映画好きを任じていたものだが、映画館の暗がりに身を沈めてスクリーンと対峙するという習慣から遠ざかって、実に久しい。フジテレビ・産経新聞を相手取った、10年に及ぶ不当解雇撤回の闘いに身をやつすあまり、時間とカネに事欠く有様となってしまったことが、その主因であることは確かなのだが、それよりも、二時間前後のときを、一方向をじっと凝視して映像と向き合うという鑑賞スタイルに、いつしか、この身が耐えられなくなってしまったせいでもある。テレビの放映やビデオテープ・DVDといった安易な代替手段が身近にあることも、かえって、時間を割き、場を確保して映画を観るということの切実さを失わせる結果となっていよう。本書に、映画へのノスタルジーを刺激されて、あわててビデオショップに走って、何本か借りだしてきはしたが、15インチのパソコン液晶画面では、あの大きなスクリーンの光と影が醸し出す陶酔は望むべくもない。

 本書は、そんな私たちをも、まるで、映画館の闇に紛れて、博識の著者と囁き交わしながら、何本もの映画を観続けているような幻覚を与えてくれる。映像が伝えようとする真意を探り当てる著者の視座も明確だ。

 新たな「世界大戦」を誘引しつつあるかに見える9.11事件が勃発したとき、私なりに事態を理解しようとして、まず脳裏に浮かんだのは、マルクス『ヘーゲル法哲学批判・序説』の、あまりにも有名な章句だった。「宗教は民衆のアヘンである」。だが、私ごときがいちいち言挙げするのもおこがましいが、マルクスが並ぶものなき偉才である所以は、この名句の前に「宗教は悩めるもののため息であり」との文言を挿入したところにある。その前段には「宗教上の不幸は、一つには現実の不幸の表現であり、一つには現実の不幸に対する講義である」との表現が置かれ、「ため息」に続いて「宗教は心なき世界の心情であるとともに、精神なき状態の精神である」と語られ、「アヘン」へとなだれ落ちてゆく(大月書店版全集から表記等を自由にデフォルメして引用)。

 ここで「ため息」という言葉にマルクスが仮託したのは、おそらく、実生活での、文字通りの苦しみ、身を捩らんばかりの悲しみ、その果ての果てに、求めても得られぬと心底了解しているはずの救いを、なおも、闇一色の現世(うつしょ)の中で、あたかも明け方の薄い光に手を差し延べるかのように、希求してしまう、民衆の心のありようであったに違いない。劫罰のように続くかにみえる苦としてのみの生。マルクスは、そこに寄り添ったのである。


 今なお、私たちの眼前に、謎のようにたゆたっている9.11事件の悲しい主役たち。世界市場を我が物とした資本主義の論理から見下ろせば、新たな戦争の号砲を鳴らしたテロリストであり、民衆の底辺から見上げれば、殉教者にして革命者。焦点を定めがたい、その二重にぼやけた像も、「民衆のため息」の視座からとらえれば、少なくとも、その悲痛な思いだけは理解できよう。

 本書の著者もまた、その視点を共有しているかにみえる。著者は、事件の本質について「アメリカが他国で収奪と虐殺の限りをつくした結果にすぎない」と切って捨て、アメリカがぶっ放したピストルの弾丸が地球を一週巡って、自分の心臓を貫いた、とさえ言いたげだ。そうした、正しいとしか言いようがない政治的認識の基層には、しかし、今、ひとたびマルクスの言を引けば「人間の根底は人間である」との慈愛に満ちたヒューマンな視点が介在している。著者は、私の無遠慮な問いかけに「映画批評はそうなるんだよ」と答えてくれたことがある。

 そこに確固として存在するのは、最下層のものたちへの共感であり、共鳴であり、共振である。「若いころからずっと働きっぱなしのわたしにとって、常に生きること――食う着る寝ると、そのために働くという問題は切っても切れない関係にあった」と明かす著者の、名状しがたい苦難に満ちた生活=労働体験が基盤にあると窺い知れよう。著者自身もまた、周縁と底辺の痛々しい記憶を手放そうとはしない。自己の生活体験を踏まえ、労働を思考の軸としている。凡百の映画批評家には望みようもない視座である。労働が、剥き出しの資本の収奪にさらされている現代を捉えるには最も大切な視点だといえる。

 映画の細部、見逃しがちな一シーンを、慈しむかのように、大切に両の手で掬い取って、その意味を尋ね、ささいなシーンから全体を括ってゆく、という著者の批評手法にも、そうした原体験が通底している。著者の心の奥底には、一本の弦があって、映像の光に感応して共鳴する。その奏でる調べは、あたう限り優しい。聴くひとには、そう響くはずだ。





 ▽時代に抗うものに深い慰めと励ましを届ける

 眠る時間も惜しんで働く、いや、働かされる愛娘について語りながら、著者は、「娘には二度の長い失業体験があった」とさりげなく付言して、過重労働にのめり込まされる、深い理由の一つを示唆する。若年労働者の異常に高い失業率と、派遣、アルバイト、パートでしか働けない実情を思い浮かべるまでもなく、愛娘の心情は察することができよう。ここには、自身と愛娘とが共有した苦しみがある。「長い失業体験」と記すことで、女性にとっての労働機会の少なさ、企業社会からの排除など、普遍化しうる女性たちの社会的な苦境をも示唆しているのだ。

 著者はまた、今や、時代の寵児となった感さえあるドキュメンタリー映画監督のマイケル・ムーアについても、頁を割いて詳論している。卓抜なブラックユーモアで観るものを抱腹絶倒させながら、隠蔽された「恐るべき真実」を抉りとるムーアの手法を「批評」と看破。「現場のあるがままをドキュメントするというよりも(略)、自分で状況を設定し、その場を劇的に盛り上げる方法」だと分析する。つまりは「やらせ」というわけだが、「ムーアはそこから社会の矛盾を批評的に浮かび上がらせる」。著者は「批評的」の後に「(観客の目にわかるように)」との注釈を入れる。

 著者は、「批評」という概念について、「対象に仮託して己の存念、いや、それどころか怨念さえをも語ってしまう」という、いわゆる近代批評とは距離を置く立場をとる。ムーアの映像を、通常のドキュメンタリーとは異なる「映画批評」と位置づけるとき、その批評という形容には、次のような了解があるのではないか。対象に全身を賭けて、己を語らざるをえないときでさえ、自己の置かれた場、時代、それらへの抵抗や迎合までを含めたスタンスの取り方などが、全て混ぜ合わされ、その危ういバランスの中で、初めて表現が成立するのだ、と。

 著者は、本書のなかで、しばしば「社会主義」という言葉を、今なお、現代にとって、ひとつの希望であるかのごとくに語る。批判すべき現実に対置される、この社会主義とは何を指しているのだろうか。「(社会主義の)国々があえなく崩壊して、なかには資本主義の下請け季刊にまで成り下がる国もでてきた」と評する著者の胸のうちを覗いて見たい誘惑にかられる。

 私見によれば、「書物に書かれた社会主義」と、「実現したと称する社会主義」とでは、雲泥の差があったことは隠れもない事実である。その隔絶された溝の深さには、ただただ、目がくらむような思いがするばかりだ。それよりもなお、「書こうとして、ついに文字に刻み得なかった社会主義という言葉に込めた思念」と、「実現したと称する社会主義」が轟音とともに自ら瓦解していった現代史の事実との隔たりには、漏らすべき吐息さえない有様だ。

 本書の著者が「社会主義」という一語に込めた意味は、その「書こうとして書き得なかった、原初の社会主義の思い」に通ずるものであるに違いない。だからこそ、本書のタイトルで「映画はたたかう」と言い得たのだ。本書の文中に、その言葉はないにしても、著者の「まなざし」のなかに、確かに、それは息づいている。資本主義を否定しうるものとしての社会主義とは何か。おそらく、それへ向けての探求もまた、著者の重い課題なのだろう。

 私は著者に何度かお目にかかっている。その際、勉強不足のジャーナリストがよくやる、お決まりの質問を試みたことがある。「あなたにとって、生涯のこの一作、といえる映画は、何か?」。著者はしばらく考えてからこう答えた。「ルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』だ」。私は、その意想外の作品名に、一瞬、驚き、「その意味をじっくり考えてみる」と、言い繕ってその場を辞した。

 次にお会いしたとき、「今もフランスに牢固として存在する階級社会の悲しみを描いた点に共感したのではないか。個人による、所属階級からの飛躍、脱出の試みは不可避的に挫折する。アラン・ドロンが放射する、輝くような青春の肉体造形の美が、よけいに、その失敗の凄惨さを増幅する。階級は集団によってしか止揚できないという結論を導き出したのでは?」と、社会主義者であることを隠さぬ著者の内心に添うようにして、私なりに考えた理由を披露してみた。著者は苦笑しながら、「階級は個では超えられぬという意味を内包しているから、あの作品が好きなのではない。それは理論的な理解にすぎる。ドロンが演じた、貧しい育ちの者の屈折した行動、心情、卑屈さ、卑劣さが、わがことのようによく分かったためだ。ナイフとフォークの使い方をモーリス・ロネ演じるブルジョワ青年に注意されるシーンなど、その悲哀、屈辱感がまっすぐに伝わってきたからだ」と、その理由を明かしてくれた。

 著者は、それと前後して、フジテレビ・産経新聞と私たちの闘争を描いたビデオプレスの作品『リストラとたたかう男』を見て、「あなたが食事をするシーンでの端の持ち方に目を奪われた」とも語ったことがある。小さな金物店を営み、その日の生活に追われながら、三人の男の子を育てていた父と母は、親指と薬指で箸や鉛筆を持ってしまう私の悪癖を直す暇さえなかったのだ。だから、パソコンで原稿を書くようになった今でも、私のペンだこは、右手の薬指に残っている。ささやかな悲哀を共有しうる著者の、そうした視線こそが、民衆のため息を、決して聞き漏らそうとはしない方法、いや、思想につながっているのだ。

 本書は、静謐な文体で、著者の感情を極力抑制する表現に終始する。それだけに、映像に触発された著者の感情の揺らぎや昂ぶりが読むものに正確に伝わってくる。「人間そのものが壊れてゆく――」という現代を、真正面から穿つ視点を保持し抜いた本書は、映画を愛するものばかりでなく、自らの置かれた場の課題を自力で考えようとするもの、自己に基因する激しい痛みに耐えているもの、逆巻く時代に僅かでも抗おうとするもの、そうしたすべての人々にとって、深い慰めと励ましを送り届けてくれるだろう。





 ◆『信濃毎日新聞』2004年8月8日
 
 「ハリー・ポッター」「スパイダーマン」……。大作映画が話題を呼んでいるが、市民運動や労働運動にかかわり、さまざまなメディアで映画批評を続けてきた著者の関心はそこにはない。

 「映画人は映画という芸術手段で世界の不条理と闘うしかない。わたしの批評はそうした映画の水先案内でありたい」

 マイケル・ムーアからイラン、アフガニスタン、中国、そして現代日本映画まで、著者は常に「働く個人」の視点から映画を見、映画の意味を問うている。





 ◆『出版ニュース』2004年9月

 〈わたしにとって映画はデュアメルのいう「奴隷のためのひまつぶし」でしかなかった。しかし〉〈しだいにスクリーンをとおして世の中のゆがんだしくみもみえてきた。それが私の批評の源泉となった〉映画は壊れゆく現代、不条理な世界にいかに対峙し、新たな表現を生み出しているのか。本書は、映画批評という手段でこうした現実と映画世界を往復してきた著者による最近の文章を編んだものだ。

 マイケル・ムーアやケン・ローチなど現代と向き合う映画人の心意気、「9・11」以降と映画、変わりゆく中国社会と中国映画、映画は日本の現実をいかに据え描いたのか、といった問いを通して、映画から壊れゆく人間と社会の再生へ向けた希望の光を見いだす。