書 評

徐京植 著
『秤にかけてはならない
 ――日朝問題を考える座標軸

 

◆『週刊読書人』2003年12月12日

 混乱と動乱が広がる中で 状況を直視し思考の「座標軸」を提示
 
                                         評者:中野敏夫

 日朝会談があったあの9月17日から一年あまりが過ぎて、なお、「拉致」問題を笠に煽り立てられるナショナリズムの嵐はとどまるところを知らない。しかし、われわれにとって、この状況が間違いなくひとつの〈思想的危機〉であるというのは、右翼ナショナリストたちの声の大きさやマスメディアによる扇情的報道の洪水ゆえばかりではあるまい。むしろ深刻なのは、この傾向に批判的でありたいと思っている人々の中に、そしてなによりもこの状況の暴力に身を曝している在日朝鮮人の中に、さまざまな混乱と動揺が広がってこの逆風への抵抗が難しくなっているということだろう。本書は、このような状況を直視しながら、いまどうしても譲ってはならない思考の「座標軸」を文字通り提示している。

 思えば、北朝鮮が「拉致」問題についての責任を認めたことが、植民地主義を問いその責任を告発する声をむしろ萎縮させ、あろうことか植民地主義の被害者である在日朝鮮人に対する暴力にまで結びついている現状は本当に異常なことだ。「拉致」は冷戦下の国家暴力であり、その背景にある朝鮮の南北分断には植民地支配の傷跡が刻印されている。拉致事件が頻発した70年代の後半には、著者徐京植の二人の兄は韓国側の国家暴力によって獄中に拉致され拷問を受けていた。このような冷戦下の国家暴力であれば、それを全面的に問うなら、ここでもあらためて植民地支配の責任が問い返されねばならない。植民地支配とは、他民族をまるごと辱め、搾取し、「改造」しようとさえした、一時代を画する「制度」であり、その責任を問うことは、なお続くそうした暴力の「時代精神」を完全に葬り去るという人類史的課題である。さればこそ、北朝鮮側が関与した拉致犯罪と、朝鮮人全体に対する植民地支配責任とを、「秤にかけてはならない」のだ。腰が座って懇切な本書の提起は、ともすると動揺するわれわれに言説の罠の在処を確かに教えてくれる。

 ところで、今日の文脈において本書を殊に特別なものにしているゆえんのひとつは、著者がそのメッセージの一部を日本人向けと朝鮮人向けとに書き分け、それらを並行させて掲げて示しているというその言説の形であるだろう。植民地主義は、支配と暴力の断絶した関係において、日本人や朝鮮人という民族のアイデンティティを構成してきたのだし、また、著者が「半難民」と規定する在日朝鮮人の存在そのものを作り出してきている。「分裂を内包したテクスト」として与えられた本書は、植民地主義によって作られたこの分断線をまさに分裂したその形のままに提示して、どんな断絶が超えられねばならないのかを見通せる確かな海図にもなっているのである。

 拉致という犯罪が明らかになり、冷戦下の暴力についても単純な左右のイデオロギー的対立構図では語りえなくなってみると、ナショナリズムの言説にも歯止めが無くなって、暴力的であけすけな語り口がまかり通るようになっている。こんな今は、皮肉なことだが、「戦後」という時代の思想的総括をする点ではひとつの好機であるのかも知れない。しかし、その総括がまた「主体」(この主体の位置に「戦後日本」を置いても「日本左翼」を置いても同じことだ)の自己反省という構図に陥るとすれば、植民地主義の生んだ断絶は増幅されるばかりだろう。このことを思っても、「半難民」の視点を自覚的に形象化する本書の語りが、今どうしても必要な準拠点を与えているのは間違いない。





◆『ジャーナリスト』第548号、2003年11月25日

 どっちもどっちではない――拉致と植民地支配。高い道徳性の提言

                                                  評者:亀井淳

 昨年の〈9・17〉、つまり日朝両首脳が国交を正常化すべく平壌で宣言を発した、と同時に北朝鮮による日本人拉致の真相の一端が明らかにされたことで日本の世論が沸騰し、両国関係が最悪の状態にあるこの1年間に、在日の知識人が絞り出すように語り、書いた書物である。

 本書の「秤にかけてはならない」は、いわゆる拉致問題と戦前の日本による植民地支配の罪悪を、「どっちもどっち」で相殺するような安易な見方には到底くみすることができないという、厳しい態度を表明したもの。

 「拉致はひとつの犯罪です。私にとっては起こってほしくなかった悲劇的な犯罪です。しかし、制度やイデオロギーとしての植民地支配という問題と、この拉致ということを秤にかけてはならない」。

 著者は、植民地支配というものを、過去の「時代精神」なのであるから現在の価値観で裁いてはならないとする一部学者らの免罪論=逆の「秤にかけてはならない」論=を批判しつつ、第二次大戦末期に治安維持法で捕らえられ、獄死した在日の詩人、尹東柱(ユン・ドンヂュ)の「死ぬ日まで天を仰いで/一点の恥なきことを……」という詩を脳裏に繰り返す。

 著者は、日本人による意識せざる部分を含んで今に続く植民地主義と闘っている。その過程で、「朝鮮人の手で正当化できない犯罪行為がなされ」、「もはや『一点の恥じもない』と顔を上げて言うことができなくなった」。だが、「その恥のゆえに植民地主義との闘争を放棄」してはならない。「(植民地主義者との)闘争は、何よりも『道徳性』において彼らを凌駕する闘争でなければならない」。 

 この高い道徳性と闘志は、著者の兄たちの不屈の闘いを見守った経験から培われたとも言えよう。徐勝、徐俊植の兄弟は71年に日本から軍事独裁政権下の韓国を訪ねて不当逮捕され、拷問を受けて長期投獄された。ひとりは不本意な自白を恐れて自らを火炎に葬ろうとまでした。

 植民地支配、冷戦構造による抑圧、そして再び日本で公然化している対朝鮮差別。それらと間断なく闘う人の精神が、研ぎ澄まされた言葉によって綴られている。)





◆『東京新聞』2003年11月30日 

 当事者としての日朝問題

                                  評者:板垣竜太(東京大学助手・朝鮮近代社会史研究)

 昨年9月17日の日朝首脳会談は日本社会に住む者に大きな動揺をもたらした。そうしたなかで、「座標軸」を失ったかのように、混乱した言動があちこちで噴出した。本書は日本と在日朝鮮人および朝鮮半島との関係について、自ら「半難民の位置」とよぶ立場から鋭い問題提起をしてきた著者が、いま見失ってはならない「座標軸」とは何かを提示した、貴重な「証言」の書である。

 本書の基本的な主題は、タイトルに明確に表れている。秤にかけてはならない――戦前に日本がおかした暴力と、戦後に朝鮮民主主義人民共和国がおかした暴力とは、「秤」にかけてどちらが重いかと論じてみたり、これでおあいこだといって相殺したりできるものではない。「戦前」と「戦後」とは、あれは昔の話、これは今の話として単純に切り離せるものではない。植民地主義に対する闘いはまだ終わっていないし、冷戦下の分断や暴力も続いている。

 冒頭の論考は、その形式からしてこの主題をよく表している。論考は三つの部分に分かれており、日本人へのメッセージと朝鮮人へのメッセージが二段組みで印刷され、そこに「まえがき」が付されている。これは、昨年12月に開かれた集会で著者が使った表現を借りれば、三つの時間、すなわち戦前から今日まで続く植民地主義の時間、戦後における冷戦の時間、そしてその二つの時間の記憶を押し流すように進行する現代のグローバル化の時間とが絡まり合って、「今日」をつくりだしている、という著者の認識が形となったものだ。本書が「証言」として位置づけられるのは、著者がそうした時間を当事者として生き、また抵抗してきたという意味においてである。

 だから、こうした「座標軸」を与えられた読者は、決して安心することはできない。自らもこの三つの時間をいま当事者として生きているという現実に、いや応なく直面するからだ。この現実のなかで、何をなすべきか、が問われているのだ。





◆『出版ニュース』2003年11月

 2002年9月17日以降、「日朝報道」の大半は「拉致問題」となり、排外的な空気が蔓延、「戦争前夜」とでもいうべき事態を迎えつつある。こうした状況の中で著者は、〈私たち在日朝鮮人は、分断国家のどちらか一方に対してすら十全な政治的主権者であるとはいえず、今回のような自らの運命を大きく左右することになる国際的決定のプロセスから排除されている〉という分裂させられた存在であることの上で、日本人と朝鮮人(南北および在日の)に向けてメッセージを発する。

 本書は、「9・17」に加えて「9・11」、アフガン、イラク、パレスチナをめぐる言論状況に在日朝鮮人の立場からの批判と提言を、インタビュー、講演、質疑、対話などの記録からまとめたものだ。日朝の「断絶」を超えるために何が問われているのか。一貫して、「半難民」の立場をもって発言し続けてきた著者の指摘は、劣化する言論を射抜く示唆に富む。





◆『信濃毎日新聞』2003年11月16日

 綱渡りが続く朝鮮半島情勢、拉致をめぐり冷静さを失った対北朝鮮感情。在日朝鮮人の作家の言葉にも苦悩が満ちている。

 「死ぬ日まで天を仰ぎ/一点の恥なきことを」という国民的詩人尹東柱の著名な詩の一節を引き、拉致事件が朝鮮人に与えた衝撃を「(その一節を)もはや顔を上げて言えない」と述べる。

 だが、半難民状態の在日朝鮮人の処遇や植民地支配の問題が拉致で帳消しにされ、日朝和解の道まで断たれてもいいのか。著者は断固として「秤にかけてはならない」と訴える。