書 評



長谷川憲一 著
『ヘルボックス ――印刷の現場から
 

◆『図書新聞』 2008.4.26

 活字から人間の叡智と「地獄(ヘル)」を知るために
                                             評者=米田綱路

 本をめぐる「用の美」というものがある。装飾をそぎ落とした美しさは、仕事に関してもいえる。本書を一読して、印刷の現場とそこでの仕事についても、「用の美」ということがいえるのだと思った。と同時に、それが炎熱、灼熱の「地獄(ヘル)」と切っても切り離せない美であることを、あらためて感じた。

 一口に美しさといっても、見かけの美醜ではない。本を美術工芸品のごとくに仕立てる向きや、また内容と装丁がハレーションを起こすほどにアンバランスな昨今の本は、一言でいって美しくない。なぜなら、介在する人がますます少なくなり、人間関係の「地獄(ヘル)」を感じさせないからである。

 印刷は、仕事としては「3K」と呼ばれた労働現場であった。活版時代は特にそうで、戦後の好況期でも求人は大変だったと、本書にはつづられている。しかし、活版印刷は美しい。著者がそうであるとおり、印刷という「美しきものを見し人」たちは、「用の美」を知っていた。印刷という「用」において美しいとは、納品された「もの」としての美もさりながら、作業工程の流れ、すなわち「不用」なものなど一つもない、仕上げまでの関係性、人と人、機械と人との結びつきを経る(ヘル)、地獄にも似た苦闘の軌跡にもあてはまる。

 活版全盛時代など知らない人間であるから、ノスタルジーとして言うのではない。印刷された版面の美しさもさることながら、字を活かし、版面を活かすプロセスが美しいと思えるのである。しかも、字を活かすためには、鋳直しの灼熱を経る必要がある。版面(はんづら)がそうであるように、そこには印刷者たちの「面(つら)」が見える。文字として伝達される内容によって書き手の面が見えるのと同様に、印圧によて浮き彫りになる人間の叡智が見えてくる。

 本書のタイトルである「ヘルボックス」とは、こぼれた活字や不要となった活字を入れる箱のことだった。“地獄の箱”とは、神を冒涜し、サタンに魂を売るものと疑われた印刷術の出生の秘密をも髣髴させるし、また、箱に捨てられ、再び滅地金として300度の焦熱地獄である鋳造機を経る(ヘル)作業工程をも形容している。

 本書に引かれるように、オランダの神学者エラスムスは、「活版術を支配するものは悪魔だ」と嘆いた。神のもらしたもうた初めにありしことばを、この技術は人間の手で複製することを可能にしたからである。印刷所の小僧は、プリンターズ・デビルといわれた。聖職者たちにとっては、活版印刷には神の冒涜とも映るような悪魔的な力が感じられたからである。

 本書には、従来の活字を使った組版は、鉛を熱で溶かして鋳造することからホットタイプと呼ばれ、電算写植による文字組版は、こうした灼熱の工程を経る(ヘル)ことがないためにコールドタイプと呼ばれたとしるされている。それは言いえて妙である。その伝でいえば、活版印刷が消え、オフセット印刷に代わっていくと、端的に言って熱が冷めたのである。それは、本をめぐる世界の変容と軌を一にしている。

 それは、印刷という悪魔的な力への畏怖を失ったということだといえる。書き手について言えば、推敲に推敲を重ね、原稿をつくりあげていくというプロセスに重きを置かなくなったのである。活字はキーボードのソフトタッチで表れるものだという感覚が、身についてしまったのだ。かつて活版時代、書き手のほとんどは、大幅に赤字を入れたことに恐縮したという。なぜなら、いったん鉛の活字で組んだ版面を、また崩さなければならないからだ。恐れが消え、地獄は地獄と意識されなくなってしまい、人の手を経る(ヘル)ことが減って、ますます冷たくなったのである。

 「タコ足原稿と言われる加筆の多い原稿を活字にするには、“想像力”がなければとてもできない相談である」と筆者は言う。実際に著者自身、植字台に向かって七顛八倒、赤字を見ては首をかしげ、まさしく「生みの苦しみ」で活字の組み替え作業を行なったという。同時に、一字一句、なるほどそうかと感歎しながらの作業の末に、組版ができあがったのである。出版社、印刷者、製本者の共同作業で初めて成り立つ本造りは、こうして人のホットな手のぬくもりを経ることで、読者に届いたのだった。

 しかも活版印刷は、本書にしるされるように、みごとな分業体制によって成り立っていた。それは、活字の美しさに魅せられる者にとっては、「用の美」をもっとも感じさせる分業と業種の世界である。活字屋、地金屋、材料屋、機械屋、インキ屋、ローラー屋、トレス屋……。どれ一つ欠けても、活版印刷は成り立たず、その微妙なバランスによって維持されてきた。

 「あやういバランスの上で操業を続けてきたホットタイプ=活版印刷に引導を渡したのは、悪名高いあの地価高騰だった」と著者はいう。彼の印刷所が扱った活版印刷とオフセット印刷の売上高の割合は、1988年には半々だったのが、1991年には活版が5に対してオフが95と、ホットタイプは90年代を境にほとんどなくなった。バブル経済の爛熟と膨張が、地価高騰と地上げの横行をもたらして印刷所を直撃し、活版印刷の衰退に拍車をかけたのである。

 バブルは歴史認識をも蒸発させ、戦後培われてきた民主主義の土台を掘り崩した。浮かれた浮薄な時代の精神風景は、ホットタイプの「ヘルボックス」を厄介払いし、新たな時代の戦争というパンドラの箱を開くのに、手を貸したといえる。

 その意味でも、いま改めて活版印刷から人間の「地獄(ヘル)」を知るために、読まれるべき一書である。