書 評

広渡常敏 『ナイーヴな世界へ』

 



◆『東京新聞』 2003年7月27日より
  前の晩思いついたような演技じゃ困る
                                      
評者=庄司 正

 東京・練馬区関町北の静かな住宅地に、「ブレヒトの芝居小屋」という変わった名の劇場がある。劇団・東京演劇アンサンブルの本拠地で、そのリーダーが広渡常敏さん(75)。

 戦後間もなく俳優座に参加し劇団三期会から東京演劇アンサンブルを通じて活動を続けるベテラン演出家だ。ここ数年の間、劇団通信などに書き続けた文章を本書にまとめた。

 「〈ナイーヴ〉っていうのは芝居の用語じゃないんだろうけど、なくなった尾崎宏次さん(演劇評論家)に以前、いい言葉なんだと教えられてね。"上等な"という意味がいいかなあ。藤田省三さんが〈アイデンティティー〉という言葉を"生き方"と解釈し、これも素晴らしいから使わせてもらっています」

 戦後新劇の社会主義リアリズムはスターリニズムと化して堕落した、という批判が広渡さんの大きな論点だが、そんな硬い議論も洒脱で柔軟な文章に包み込まれ、全体に読みやすい演劇論が展開される。

 劇団員には常に「演技の技術ではない。生き方こそが俳優に問われているんだ」と説いている。それが本書でよく分かる。

 うまい演技をしようなどと思わないで、きみ自身の素顔で挑戦してください……昨日の夜思いついたことなどを決してやらないように――これは他劇団との合同講演を演出した際、出演者たちに配った文の一節。「読んでくれたのか、分かんないけどね。生き方がちゃんとしてりゃ、けいこ場でこっちも"なるほど"って思う。互いに啓発される。また使ってもらおうと思って、演出家が喜びそうなことなんか言う役者はウソっぽくてたまんないな」と手厳しい。

 〈マイノリティー〉(少数派)というのも広渡さんのキーワード。都心を離れた自分たちの劇場で、思うままに、過激に、自分たちの舞台を創造したい。その自由のために、経済的な苦労は大きくてもメジャーは志さない。「少数派だからあまり手本がないんだ。自分たちで生き方をつくらなくちゃ行けない。それが面白いんだね」と、話は"生き方"に戻っていった。

 一時崩していた体調も回復し作・演出の「ヒロシマの夜打つ太鼓」を8月29日から本拠地で上演する。「本も、もう一冊は書かなくちゃね」と快活な表情だった。





◆『テアトロ』2003年8月号より

                                                            評者=渡辺一民

 本書には過去15年芝居をめぐって広渡氏が折にふれて書いた文章が収められている。

 玄海灘の海辺で読んだチェーホフの『かもめ』に名状しがたい衝撃を受けた少年の、その後の歩みの辿られるのが冒頭の「回廊からの眺め」である。戦後の日々のなかで演劇に憑かれた少年は、〈ヴ・ナロード〉の言葉につき動かされて新劇の世界に入り、一世を風靡する社会主義リアリズムに疑念を抱き、民衆レベルの生活記録運動の提起する"概念砕き"の実践に触発され、「生活のディティールから"下から上へ"超課題と逆方向のリアリズム」を創りだそうと、三期会、のちの東京演劇アンサンブルを結成する。同時にブレヒトに出会って開眼した氏は、その叙事詩的演劇の「異化」を実地におこなうため映画スタジオのオープンスペースを利用する「ブレヒトの芝居小屋」を創設し、既成の新劇の体制から剥離した演劇空間をもって新しい演劇運動を開始する。こうして「意識下の深淵で傷ついた、打ちひしがれた魂をひきずって、なお陽気な人々の日常の風景」として、日常生活の「異化」された喜劇にほかならぬ、独創的な『かもめ』を製作し、それを携えて1993年モスクワに赴くところまで、「回廊からの眺め」では回想している。

 そうした演出家広渡常敏をささえるものを、氏自身「俳優の演技の即興性と俳優本人の"異化"(状況の発見)」と規定する。本書ではそのことが繰りかえし語られるのだが、砕いていえばこういうことだ。氏はコミュニティーとしての劇団の必要から説きおこす。「集団が経験をつくりだし、その経験を通してつくりだされる想像力で」たがいの演技を見守る――そうした"おもいやり"と"やさしさ"のなかではじめて、俳優には「単独者としかいいようのない、自分自身のナイーヴなアイデンティティーへと歩きだす」ことが可能となる。そうやって俳優が芝居にたいして自己を投げだすとき、彼は「もう一人の自分」、未知なる他者と遭遇し、自分にナイーヴな声と体がつくられていさえすれば、そこに生まれるさまざまな可能性にナイーヴに対応することができるであろう。「即興演技」というのは、その他者=未知との出会いの瞬間の自身の反射表出のことにほかならない。近代演劇革命の目指した「素顔」の登場とは、そのような俳優の作品行為を指すのだと氏は主張する。

 そうした演劇観が、劇団主義を否定する最近のプロデユース制、「役」と俳優の同化をめざす新劇のあり方、俳優の専門化、職業化を唱える風潮を根底的に批判するものであることは言うまでもない。しかも氏の一貫したアマチュアリズムこそ、近代演劇革命に通底するものであることも見落としてはならぬ。本書をつうじて、戦後50余年間、時代の潮流に逆らい「今日の世界を"異化"しようとする舞台」をつくりつづけてきた、一人の演出家のすべてを知ることができるであろう。